本当に必要? - にゃん吉一代記
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本当に必要?



 電通で痛ましい出来事があった。本当に残念なことだと思う。
仕事に対する考え方は、人によっても立場によっても違う。それは当然のことであると思う。
ただ、これらの出来事で報道されて世間に知られるものは氷山の一角でしかないだろう。人の心を追い詰めるものが何かといえば、それも人それぞれだが、根本的な原因をいくつか解決することで、少しは、悲しい事件が減るのではないかと思う。
「本当に必要なの?」こんなことを考える。「昔はよかった。」などと、言われるが実際にその時代に生きていれば、いつの時代でも困難や苦難はある。昔は、みんな困難や苦難がなかったかといえば、決してそんなことはない。
現在、どこでも言われるのは人手不足だ。団塊の世代の人たちが現役を引退して、出生率が低下している現在となっては、過去と同じ人手を必要とする生産をしていたのでは、同じ品質を保ち、同じ数の生産をすることも困難になってくるだろう。人口統計のグラフを見ると、日本の人口は、2010年度頃から減少方向となっている。この先、よほどのことがなければ増加に転ずることはないだろう。しかも高齢になる方が多い。現在の日本の平均年齢は、45歳ぐらいとのことだ。このように人の数は減っていても、様々なサービスは過剰とも思えるほど増えている。平成になってから、24時間営業をするサービス業、物販店などが、どんどん増えている。コンビニなどを例にとってみれば狭い範囲に乱立しているのが実情だ。また、飲食店もそうだ。昼夜を問わず、少し探せば、どこかは開いている。スーパーも24時間営業ではないにしても営業時間はのばしている店舗が多い、コンビニにせよ、飲食店にせよ、スーパーにせよ、個々の企業が思惑を持って営業しているため、競争が起こる。それは過当競争となり、互いの力を弱めることにもなりかねない。場合によっては利益のない中で販売を続ける。本当の消耗戦だ。矢吹ジョーと、ホセメンドーサの試合のように互いが、力を出し合うのはいいが、企業間の争いの場合に双方にダメージが残るような戦いをすると、社員にも十分な利益の還元は不可能になる。しかし、自由競争の世界で戦いをやめろとも言えない。一部のルールは法にも定められているが今の日本では影響力は小さい気がする。本当に必要だろうかと考えた時に必要のない、または過当であるものを減らさなければ、今の日本の働く人の環境は変えることはできないだろう。
 わかりやすいサービス業を種として取り上げているが、これは他の業界でも多かれ少なかれある話ではないだろうか。適材適所に人員を配置できれば作業や生産性は向上するが、そんなに人があふれているわけではないのだ。そして、いくら優秀な人であっても、人一人に与えられる時間は一日あたり24時間。そのうちの勤務時間は、8〜10時間程度だ。規定の休日も必要だ。これでこのままで、労働時間は減らして給料を上げるなどという技は難しい。会社は一過性のものではならない。短いスパンなら流行に乗ったり目新しいことをやれば、あるいは、ということもあるかもしれないが基本的には難しい。風営法というものがある。これは一般的な飲食店や工場や会社には適用されない。別の目的をもって作られた法だから当然のことなのだが、これにより適用される多くの業種は、営業時間も制限される。多くの意見があることだろうが、これはこれでいいのではないかと思う。営業時間を制限することで、現在、3交代でないと立ちいかない職場を2交代で回せるようにできれば、それだけでも必要な人手は、変わってくる。不安定な職場、不安定な人員を是正しようとするなら、思い切った改革が必要だ。そこで考えねばならないのは、本当に必要なものかどうかということだ。必ずしも必要ではないものは、強制力をもってしても、縮小したほうがいいのではないだろうか。省エネ、CO2削減などが叫ばれ各社が、自分の会社の取組を声高にアピールしている。でも、24時間のうちの8時間を止めてしまえば、今より確実にCO2の排出量も減る。努力の矛先は、本当の削減より自社の優位性に向けられているのだ。戦後の日本は高度成長期を迎えた。たしかに他のことを犠牲にして仕事をした人も多くいただろう。しかし、今と比べて秩序のない働き方だったのかどうか。多くの人は夢の実現のために働いていた。敗戦という、これまでに経験したことのない不遇の生活から、文化的な生活をすることは夢だっただろう。でも、高度成長期においては必要なもの以外はあまり消費されなかったはずだ。消費しようにも無駄に贅沢なものなどなかったのだ。多くの企業の稼働時間を1/3に制限することは、自由競争の妨げと思われるかもしれない。しかし、等しく平等に稼働時間を制限すれば、それは決められたルールの中での自由競争と言えるのではないだろうか。また、売れる商品となれば、どんどん生産する、そして発売から1年も経つと、いい商品であっても希少性はなくなる。ついには廉売の商品となる。多くの稼働時間を制限すれば、物が余るほど作ることも少しは避けられるであろう。日本の優秀な家電製品が、実際の価値以下の廉価で爆買いの餌食になっている姿は悲しいものだ。
 次に移動方法についても考えてみよう。かつて日本では、2リッター(2000cc)以上の排気量の乗用車に乗っている人は少なかった。そういう車が少なかったこともあるが、自動車税も足かせとなっていた。排気量に限ると1500ccから2000ccまでの年間の自動車税は、約40,000円、2000ccを越えると、一気に倍近い自動車税を徴収された。今では、細かな区分もされて、2000ccと2500ccの自動車税の差は微々たるものとなった。移動手段の一つとしてタクシーもあるが初乗り運賃の値下げなどの施策をしているところを見ると、乗客の数は芳しいものではないだろう。だいたいタクシーって乗車定員の割には大きめの車体の車が多い。タクシーだからといえば、その通りなのだが、これも昔からの当たり前といった習慣的なものに囚われてはいないだろうか。バスや電車が発達している所以外で、本当にタクシーを必要とする人がいると思うが今の料金では、乗車するのは難しい。タクシーの乗客の数を見ていても、3人以上で乗車する例は多くない。車体を見直して、利用する人に歩み寄ることもいいのではないだろうか。同様に自家用車としての自動車も、大きなボディのものが当たり前のようになっている。家族全員でドライブに出かける機会が多いようなら、それもいい。高度成長期には、カー、クーラー、カラーテレビが生活の豊かさの三種の神器と言われた。今は、それらは揃っている。敢えて持たない人もいるぐらいだ。そして、持つ人は、さらに高級なものを求める。これも本当に必要なのか。街を走っている乗用車に乗車している人の数を数えてみればわかるが、1台当たりで平均2人も乗っていない。5人の定員の乗用車でも平均の乗車人数は、1.5人程度なのだ。もっと大々的に調査をすれば、出てくる数字は多少変わるかもしれないが、5人の乗車定員の車に5人が乗って走っているのを見かけることは、とても少ない。ボディが大きくなれば、移動するために必要な仕事量は多く必要になる。これは当然のことだ。燃費を良くする努力や排出ガスをきれいにする努力がたゆまなく続けられているのは、わかっている。以前なら、そのためにも多少は大きなボディも必要だったが今の日本の技術力なら、小さなボディに高性能なエンジンをコンパクトに搭載することも可能だろう。大きなボディの車は、乗っている人にはいいものだが、弊害も多い。日本の道路は幹線以外は狭く細く曲がりくねっている。そこに大きな車が入ってくると、いくら高性能な車でも離合は困難となり、他の小型車にも迷惑だ。大型車は駐車のための場所も広く必要だ。重量もあるため道路を傷める元にもなる。小型車と比べるとガソリンの消費量も多い。1.5リットル(1500cc)クラスの自動車でも、5人乗車は充分に可能なのだ。コンパクトな自動車が多くなれば、無駄なものは、ずいぶん削減できる。コンパクトな自動車は小回りもきくし、経済的でもある。いっそのこと、2リットル(2000cc)以上の乗用車の自動車税は過去のように高額なものにしたらどうだろう。税収が増えれば、産業の振興や働く人の環境作りにも使える。自動車メーカーも自動車税の枠を考えて自動車を製造すれば、比較的小型の乗用車が見直されるのではないだろうか。大型車は安全だという神話もあるが、現在の日本の技術をもってすれば、小型車でも充分に安全な自動車は作れるはずだ。自動車に関して別の方向から考えることもできる。国内の道路の法定速度は最高で100km/hなのだ。いたましい交通事故の一部は速度超過によって起きている。過去に国産の自動車には速度リミッターがついていた。180km/h以上は出せないように自動車で制限されていた。法定速度の最高速が100km/hなのだから、国内を走る全ての自動車に120km/h程度の速度リミッターをつければいいのではないだろうか。自動車に乗っている人の安全性を考える場合には自動車の速度が低いほうが安全に作りやすくなる。高速道路であっても渋滞が繰り返される日本の道路において過剰な最高速の性能など必要はないと思う。加速性能や馬力、制動性は安全にも貢献する場合がある、これをスポイルする必要はないが、法定速度をはるかに越える最高速の性能は本当に必要なのかどうか。その、ほとんどを定員の半分以下で動いている乗用車の無駄を省くことは、大きなメリットだ。政治家の人も、自分が乗っている自動車に関して無駄がないかどうか、考える時期なのではないだろうか。
 企業は利潤を追求しなければならない。利潤がなければ社員に還元することはできない。企業にとって最も高いのは人件費だ。しかし様々な法や制約があり、利益を上げられる人に対しても上げられない人に対しても給料は払わなければならない。しかし、現在のきつきつの生産体制では、雇用する側も雇用される側も自由にならない。責任を背負いこんだり、利益を上げることのできない人の穴埋めを強いられたり、そんなことで仕事ができる人が追い込まれることもある。適材適所など名ばかりで、とりあえずの人員配置しかできなくなってしまう。雇用者、被雇用者の双方にとって良くない環境が続く。事務処理に向く人もいれば向かない人もいる。しかし、向かない人であっても、その人以上に事務処理を的確にできる人がいなければ、その人は事務処理を強いられる。本来なら現場に出て、もっと生産性を上げられる人であったとしてもだ。合理性と言いながら今の日本は合理的でもないし、実力のある人の実力を出せる環境でもない。その問題の根幹は平等な条件の中での競争に目を向けず、今の環境の中での競争になっていることだろう。国内の産業と言いつつも経済の高揚には他国の貨幣の獲得が主要な部分を占めている。国内での確固とした基盤があれば、こんなことにはならないが、まやかしの豊かさに一喜一憂しているのが実際の姿ではないだろうか。安倍政権が始まって、「円安」が実現し「金融緩和」が行われた。輸出産業は一時潤ったが、今となっては、政権発足時とさして変わらない。マイナス金利などは、本来あってはならないことだ。国が豊かになったとすれば、国民の多数が豊かさを実感しなければならない。そして次世代のために国は健全な運営をする必要がある。しかし、実際には国の借金を未来に先送りしただけだ。消費税も増税しなければ立ちいかないほどの運営になっているが、それも簡単には実施できないのが事実だ。一般家庭でも貯蓄をするには生活の中の何かを貯蓄に回さなければならない。国も同じことだ。外貨や株価といったマジックで豊かになったと思わせても実際の貯蓄が増えているわけではない。心は敏感に反応する。貨幣にばかり頼った金融緩和策など、本当の豊かさを生み出せるものではない。無駄と無理を省くことで、外貨に頼らない豊かさも作ることは可能なはずだ。円が安くなれば輸入は潤うが、多くのものを輸出に頼っているいる日本では一般の生活は苦しくなる。逆に円が高くなって潤う人もいれば不振になる人もいる。諸外国の動向に頼りきった今の日本の経済は砂上の楼閣だ。内需の拡大によって国が富む時代ではない。むしろ、無駄を排して家庭も国も健全化させることが大切なのではないだろうか。





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