石川啄木 日記 明治41年5月2日 - にゃん吉一代記
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石川啄木 日記 明治41年5月2日



石川啄木の三度目の上京に合わせて、日記を読んでいこうと思いついたが、日が進むごとに読むほうが遅れている。毎日のように長い日記を残しているのは、すごい。日記であっても、文章にセンスを感じる。このような人を天才と呼ぶのだろう。


明治41年5月2日

まずは、原文から。







五月二日
 与謝野氏は外出した。晶子夫人と色んな事を語る。生活費が月々九十円かかつて、それだけは女史が各新聞や雑誌の歌の選をしたり、原稿を売るので取れるとの事。明星は去年から段々売れなくなつて此頃は毎月九百しか(三年前は千二百であつた。)刷らぬとの事。(昨日本屋の店に塵をあびて、月初めの号が一軒に七部も残つて居た事を思出した。)それで毎月三十円から五十円までの損となるが、その出所が無いので、自分の撰んだ歌などを不本意乍ら出版するとの事。そして今年の十月には満百号になるから、その際廃刊するといふ事。怎せ十月までの事だから私はそれまで喜んで犠牲になりますと語つた。
 予は、殆んど答ふる事を知らなかつた。噫、明星は其昔寛氏が社会に向つて自己を発表し、且つ社会と戦ふ唯一の城壁であつた。然して今は、明星の編輯は与謝野氏にとつて重荷である、苦痛を与へて居る。新詩社並びに与謝野家は、唯晶子女史の筆一本で支へられて居る。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編輯長に雇はれて居るやうなものだ!
 話によれば、昨年の大晦日などは、女史は脳貧血を起して、危うく脈の絶えて行くのを、辛うじて気を熾んにして生き返つたとの事。双児を生んでから身体が弱つたといふ。父は中風であつたが、中風の遺伝ある者は、三十以上になつて本を読んではいけないと医者が云ふが、“怎して貴君、読む所ではない、自分で拵へるんですものねー。”――“尤も私、ズツト以前にもよく貧血を起す事があつたんですけどね。いつでしたか、国で虎烈刺が流行つた時でした。立つて戸外を見てゐると、夕ぐれで、砂埃が立つんですよ。それをね、あの埃の中にコレラの黴菌があるんだナと思ひますと、その(コレラ)と云ふ人が黒い衣服を着て歩いて来たんですよ。そして家へ入つて来て、黙つて私の身体の中へ入つて行くんぢやありませんか。……気がついた時は、水をかけたりなんかして大騒ぎでした。”
 それから又、此頃脱稿したといふ一幕物の戯曲“第三者”の話をした。女主人公(博士夫人)は女史自身で、一緒に自殺する男は森田白楊君、そこへ出て来て女主人公に忠告する大学生は茅野君を書いたのださうな。それから、モ一つ、去年の夏から起稿して半分書いた、万朝報へ約束の、題未定の小説も亦、森田君を書いたのだと話した。
 宮崎兄と小嶋君とせつ子へ手紙を書いた。
 二時、与謝野氏と共に明星の印刷所へ行つて校正を手伝ふ。お茶の水から俥をとばして、かねて案内をうけて居た森鴎外氏宅の歌会に臨む。客は佐々木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋に予ら二人、主人を合せて八人であつた。平野君を除いては皆初めての人許り。鴎外氏は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍医総監とうなづかれる人であつた。信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。左千夫は所謂根岸派の歌人で、近頃一種の野趣ある小説をかき出したが、風采はマルデ田舎の村長様みたいで、随分ソソツカしい男だ。年は三十七八にもならう。
 角、逃ぐ、とる、壁、鳴、の五字を結んで一人五首の運座。御馳走は立派な洋食。八時頃作り上げて採点の結果、鴎外十五点、万里十四点、僕と与謝野氏と吉井君が各々十二点、白秋七点、信綱五点、左千夫四点、親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。鴎外氏は、“御馳走のキキメが現れたやうだね。”と哄笑せられた。次の題は、赤、切る、塗物の三題。九時半になつて散会。出て来る時、鴎外氏は、“石川君の詩を最も愛読した事があつたもんだ。”
 吉井、北原二君と共に、動坂なる平野君の宅に行つて泊る。床の間には故玉野花子女史の位牌やら写真やら、色んな人形などを所せく飾つてあつた。寝てから吉井君が、十七の時、明治座に演じた一女優を見そめた初恋の話をした。平野君は頻りに、細君の有難味を説いたが、しまひになつて近所の煙草屋の娘の話をする。眠つたのは二時半頃であつたらう。





原文は、石川啄木 啄木日記さんからコピーさせていただきました。


さて、今風の文章にして、読んでみよう。でも、こうすると言葉の韻やリズムや雰囲気は表現できない。翻訳をする人は偉大だと思う。この現代語訳は間違っているところも多いと思う。もう少し勉強して、再度アップしたいと思っている。


明治41年5月2日

与謝野(寛)さんは、外出した。(与謝野)晶子夫人といろいろな話をした。生活費は!毎月90円かかるそうだ。それだけは、晶子さんが新聞や雑誌の歌の選考をしたり、原稿を書いて売れば、何とかなるそうだ。明星は、去年から、だんだん売れなくなって、この頃は、毎月900部しか(3年前は、1200部)印刷しないとのこと。(昨日、本屋で明星がホコリを浴びて月初に発売された本が一軒に7部も残っていたことを思い出した。)それで毎月30円から50円の損になるが、その損失を埋める収入がないので、不本意ながら自分が選んだ歌などを出版するとの事。どうせ10月までのことだから私はそれまで喜んで犠牲になります。と言う。
 僕には答える言葉がなかった。ああ、明星はその昔、与謝野寛(鉄幹)さんが社会に向かって自分の文学を発表して、なおかつ社会と戦う唯一の城壁(手段)だった。しかし、今は明星の編集は与謝野(寛)さんにとって重荷であり苦痛を与えている。今の新詩社と与謝野家は晶子夫人の筆のみで支えられている。そして、明星は今は晶子女史のもので、寛さんは仕方なく明星の編集長になっているようなものだ!
 話によると昨年の大晦日には、晶子女史は脳貧血を起こして脈が止まってしまう寸前だった、何とか気を強く持つことで生き返ったとのこと。双子を産んでから身体が弱くなったと言う。女史の親父さんは、中風(中気、脳血管障害の後遺症)であった、中風の遺伝のある人は、30歳以上になったら本を読んではいけないと医者が言うが、「それどころか、あなた。私は読むどころではなくて自分で本を作っているのですもの。もっとも、私はかなり前から貧血をおこすことがあったのです。いつだったか国でコレラが流行った時です。立って外を見ると、夕暮れで砂埃がたつのですよ。それを、ほら、あの砂埃の中にコレラの微小な菌があるのだろうなと思うと、そのコレラという人が黒い服を着て歩いてきたのです。そして、家に入ってきて黙って私の身体に入っていくじゃないですか。…気がついた時にはみずをかけたりなんかして大騒ぎでした。」
 それから、最近書き上げた戯曲「第三者」の話をした。主人公の女(博士夫人)は晶子さん自身で一緒に自殺する男は、森田白楊さん、そこへ出てきて主人公の女に忠告する大学生は茅野さんを書いたのだそうだ。それから、もう一つ。去年の夏から書き始めて半分まで書いている万朝報に掲載する約束の題が未定の小説も、森田さんを書いたと言った。
 宮崎(郁雨)さんと、(横浜の)小嶋さんと、(函館に居る妻の)せつ子に手紙を書いた。
 二時、与謝野さんと一緒に明星の印刷所へ行って校正を手伝う。その後、御茶ノ水から人力車で、先日誘いを受けていた森鴎外さんの家での歌会に参加した。参加者は佐々木信綱さん、伊藤左千夫さん、平野万里さん、吉井勇さん、北原白秋さんと、僕たち二人(与謝野寛、石川啄木)、主人(森鴎外)を合せて八人だ。平野さんを除いては初めて会う人ばかりだ。鴎外さんは、色黒で、立派な体格の、髯がきれいな、誰が見ても元軍医総監と納得できる人だ。信綱さんは温厚そうに見える、女性のお弟子さんが千人近くもいるというのもうなづける。左千夫さんはいわゆる根岸派の歌人だ、近頃一種の野趣ある小説をかき出したらしいが、その風貌はまるで、いなかの村長さんのようで、どうもそそっかしい人のようだ。年は三十七、八ぐらいだろう。角、逃ぐ、とる、壁、鳴、の五字を結んで一人五首の運座(俳諧で、多数の人が集まり一定の題によって句を作り、互選する会。文政年間(1818~1830)に始まり、明治時代には日本派俳人の定式となった。)を開始した。出されたお料理は立派な洋食だった。八時頃に作り上げて採点。結果は、鴎外さん十五点、万里さん十四点、僕と与謝野さんと吉井さんが、それぞれ十二点、白秋さん七点、信綱さん五点、左千夫さん四点、親譲りの歌の先生で大学の講師である信綱さんの五点は、実際気の毒だった。鴎外さんは、「ごちそうの効き目が現れたようだね。」と、冗談を言って笑った。次の題は、赤、切る、塗物の三題。九時半に解散となった、家を出ようとすると鴎外さんが、「石川君の詩を最も愛読した事があったもんだ。」と言ってくれた。
  吉井さん、北原さんの二人と共に、動坂にある平野(万里)さんの家に行つて泊ることとなった。床の間には故玉野花子女史の位牌や写真や、色んな人形などを所狭しと飾ってあった。布団に入ってから吉井君が、十七歳の時、明治座で演じていた女優を見そめた初恋の話をした。平野さんはしきりに、奥様の有難味を語ったが、最後は近所の煙草屋の娘の話をする。眠ったのは、2時半ぐらいだっだろう。



 この日の日記も長めだ。啄木はこの日、多くの文人との出会いがあったようだ。自分より年上の人に対しても、日記の中であるからかもしれないが、かなり横柄にも取れる呼び方だ。当時の日本の言葉のニュアンスは今とは違うかもしれない。相手を「おまえ」と呼ぶのは通常は失礼だが、「御前様」から変化してきたとすれば意味合いは違う。この辺りは、時代背景以上に推察が困難だ。








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