石川啄木 日記 明治41年5月1日
石川啄木の日記である。
明治時代なのに、啄木の足跡が廻れるのは、啄木が几帳面に日記をつけていたことにつきる。
几帳面な性格だったのだろう。
借金も、ちゃんとつけていたらしい。
でも、返していない。
でも、まわりの人に、ある意味、愛されている。
明治41年5月1日日記。まずは原文。
皐 月
緑の都――新生活
五月一日
朝、隣りの生田長江君を庭伝ひに訪ねる。昔に変らぬ弁舌のさはやかさ。カイゼル式の短かい髯を撚るのが一種の愛嬌を現はす。新夫人は銀杏返しを結つて居た。
それはそれは元気のよい気焔で、話が我知らずはづんだ。クラシカルな態度から急変して、二三ヶ月前に長い自然主義論を書いた此人は、今日は頻りと英雄崇拝主義――天才主義をとなへて、来るべき新ロマンチシズムの鼓吹者は自分だと云つた。“僕は必ず次期の新機運を起します。”と胸をそらした。真山青果の経歴なども話した。予は此人の此日の議論によつて益せらるる所は少しも無かつたが、対新詩社の関係や其他についての親切なる語には感謝した。
午后金田一君を訪ねて夕刻かへる。松原正光といふ人が来て、頻りに牛の話や豚の話をした。八時頃森田白楊君が来た。平塚明子といふ女と二人日光の山に逃げた事について、二週間前に各新聞に浮名を謳はれた人……その故か、随分と意気沮喪して居た。然し自分は怎してか此人が昔からなつかしい。今は夏目氏の宅に隠れて居るとの事。(新詩社にて)
さて、読んでみよう。
五月(さつき)
緑の都 ーー 新生活
5月1日
朝、新詩社の隣に住んでいる、生田長江さんを訪ねてみた。昔と変わらず言葉が爽やかだ。オシャレで文学的な短めのカイゼル髭が愛嬌でもある。結婚したばかりの奥様の髪型は、若々しい銀杏返しだ。(生田長江さんは、評論家、翻訳家、劇作家、小説家。鳥取県出身、1882年(明治15年)4月21日生まれ。啄木は1886年(明治19年)2月20日生まれ。)
生田さんは、とても元気そうで話がはずんだ。少し前までのクラシカルな作風から一変して、二三ヶ月前に長い自然主義論を書いたこの人は今日はしきりと英雄崇拝主義−−天才主義をとなえて、来たるべき新ロマンチシズムを先頭に立って広めるのは自分だと言った。「僕は必ず新しい機運を起こします。」と胸をそらせた。真山青果さんのことなども話した。僕としては、この人の話から得るものは、ほとんどないが、新詩社に関することや他のことでも、親切に対応してくれる点は感謝する。
午後は金田一さんを訪ねて、夕方、新詩社に帰った。松原正光という人が来て、しきりに牛の話や豚の話をした。8時頃、森田白楊君さんが来た。平塚明子(らいてう)という女と二人で日光の山に逃げたことで各新聞に浮名を謳われた人。(おそらく、塩原事件のことだろう。)そのせいであろう。ずいぶん意気消沈していた。しかし、僕はどうしてかわからないが、この人のことを昔から懐かしく感じる。今は夏目さんの家にかくまってもらっているそうだ。(新詩社にて)
今回は小説風ではない日記だ。
20代前半頃に書かれた文章だ。
やはり、啄木は天才的なものを持っていたのだろう。
まじめに働いて、文学のためだけに時間を使っているのなら、若くして、すばらしい文章が書けるのもわかる。釧路時代以降の啄木は、遊び回っている。それでも、これだけの日記を残せた。
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明治時代なのに、啄木の足跡が廻れるのは、啄木が几帳面に日記をつけていたことにつきる。
几帳面な性格だったのだろう。
借金も、ちゃんとつけていたらしい。
でも、返していない。
でも、まわりの人に、ある意味、愛されている。
明治41年5月1日日記。まずは原文。
皐 月
緑の都――新生活
五月一日
朝、隣りの生田長江君を庭伝ひに訪ねる。昔に変らぬ弁舌のさはやかさ。カイゼル式の短かい髯を撚るのが一種の愛嬌を現はす。新夫人は銀杏返しを結つて居た。
それはそれは元気のよい気焔で、話が我知らずはづんだ。クラシカルな態度から急変して、二三ヶ月前に長い自然主義論を書いた此人は、今日は頻りと英雄崇拝主義――天才主義をとなへて、来るべき新ロマンチシズムの鼓吹者は自分だと云つた。“僕は必ず次期の新機運を起します。”と胸をそらした。真山青果の経歴なども話した。予は此人の此日の議論によつて益せらるる所は少しも無かつたが、対新詩社の関係や其他についての親切なる語には感謝した。
午后金田一君を訪ねて夕刻かへる。松原正光といふ人が来て、頻りに牛の話や豚の話をした。八時頃森田白楊君が来た。平塚明子といふ女と二人日光の山に逃げた事について、二週間前に各新聞に浮名を謳はれた人……その故か、随分と意気沮喪して居た。然し自分は怎してか此人が昔からなつかしい。今は夏目氏の宅に隠れて居るとの事。(新詩社にて)
さて、読んでみよう。
五月(さつき)
緑の都 ーー 新生活
5月1日
朝、新詩社の隣に住んでいる、生田長江さんを訪ねてみた。昔と変わらず言葉が爽やかだ。オシャレで文学的な短めのカイゼル髭が愛嬌でもある。結婚したばかりの奥様の髪型は、若々しい銀杏返しだ。(生田長江さんは、評論家、翻訳家、劇作家、小説家。鳥取県出身、1882年(明治15年)4月21日生まれ。啄木は1886年(明治19年)2月20日生まれ。)
生田さんは、とても元気そうで話がはずんだ。少し前までのクラシカルな作風から一変して、二三ヶ月前に長い自然主義論を書いたこの人は今日はしきりと英雄崇拝主義−−天才主義をとなえて、来たるべき新ロマンチシズムを先頭に立って広めるのは自分だと言った。「僕は必ず新しい機運を起こします。」と胸をそらせた。真山青果さんのことなども話した。僕としては、この人の話から得るものは、ほとんどないが、新詩社に関することや他のことでも、親切に対応してくれる点は感謝する。
午後は金田一さんを訪ねて、夕方、新詩社に帰った。松原正光という人が来て、しきりに牛の話や豚の話をした。8時頃、森田白楊君さんが来た。平塚明子(らいてう)という女と二人で日光の山に逃げたことで各新聞に浮名を謳われた人。(おそらく、塩原事件のことだろう。)そのせいであろう。ずいぶん意気消沈していた。しかし、僕はどうしてかわからないが、この人のことを昔から懐かしく感じる。今は夏目さんの家にかくまってもらっているそうだ。(新詩社にて)
今回は小説風ではない日記だ。
20代前半頃に書かれた文章だ。
やはり、啄木は天才的なものを持っていたのだろう。
まじめに働いて、文学のためだけに時間を使っているのなら、若くして、すばらしい文章が書けるのもわかる。釧路時代以降の啄木は、遊び回っている。それでも、これだけの日記を残せた。
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