石川啄木 日記 明治41年4月29日
三度目の上京を果たした石川啄木の日記である。
東京に着いて2日目となる。
まずは、原文から。
四月廿九日
八時半目をさます。晴がましい初夏の日に緑の色が眩しい。
十時頃、四谷大番町に小泉奇峰君を訪ねて、一緒に市中をブラついた。小川町のトある蕎麦屋で昼食して、歩いて歩いて須田町で別れる。本郷行の電車を待合はして乗らうとすると“石川さん”と云ふ女の声に後ろから止められた。それは梅川であつた。看護婦の梅川……造花の稽古に上京したと聞いた梅川であつた。妙に釧路の人に逢ふ日だなと思ふ。
女は、今朝さる古本屋で予の“あこがれ”を買つて来て、そして釧路新聞に出て居る予の退社の広告を見て、出て来て予に逢つたと話す。何処へと聞くと芝へと云ふ。予は態と反対の方角をとつて上野へゆくと云ふと、私も来てからまだ行かぬから伴れて行つて呉れと先に立つて歩く。遂に二人は上野の山に上つた。色あせた残んの八重桜の花の名残り、鮮かな緑の色にけおされて痛ましい。若葉の中の大仏は興を引いた。女は頻りにセンチメンタルな事を云つては“奇妙ですねー。”と繰返した。
広小路で女を電車に載せてやつて、予は菊坂町の赤心館に金田一花明兄を訪ねた。髪を七三にわけて新調の洋服を着て居た。予が生れてから、此人と東京弁で話したのは此時に初まる。
豊国へ案内されて泡立つビールに牛鍋をつついた。帰りはまた一緒に赤心館に来て、口に云ひ難いなつかしさ、遂々二時すぐるまで語つて枕を並べた。
さて、読んでみよう。
明治41年4月29日
8時半頃に目を覚ます。晴れがましい初夏の日に緑がまぶしい。
10時頃、四谷大番町(現在の新宿区大京町のあたり)に小泉奇峰君を訪ねて一緒に街をぶらぶら歩いた。小川町の、ある蕎麦屋で昼食を済まし、さらに歩いて須田町で別れた。(小泉さんは釧路の頃に関係する人と思われる。小川町、須田町ともに千代田区だろう。)本郷行きの路面電車に乗ろうとすると、「石川さん。」と後ろから女の人に声をかけられた。それは、梅川さんだった。看護婦の梅川さん。造花の稽古のために上京したと聞いた梅川さんだった。妙に釧路の人に会う日だなと思った。(この日の日記あたりから、啄木は小説を強く意識して日記を書いているような気がする。出来事について単純に記録しているわけではない。)
梅川さんは、今朝、どこかの古本屋さんで、僕の詩集「あこがれ」を買ってきて、そして釧路新聞に出ている僕の釧路新聞退社の記事を見て、東京に出てきて、僕に会ったという。僕は、わざと「反対の上野の方に行く。」と言うと、「私も出てきてから上野には行ったことがないので、連れていってください。」と、言って先に歩く。ついに二人は上野の山に登った。色あせた八重桜の花の名残りは、鮮やかな緑の色に気おされて痛ましい。若葉の中の大仏はよかった。梅川さんは、しきりにセンチメンタルなことを言い、「奇妙ですね。」と繰り返し言った。
広小路まで梅川さんを送り電車に乗せてあげた。その後、僕は菊坂町の赤心館に金田一京助さんを訪ねた。髪を七三に分けて新しくあしらえた洋服を着ていた。この人と東京弁で話すようになったのは、これが最初だ。
牛鍋の料理屋さん「豊国」に案内されて、泡立つビールを飲みながら、牛鍋をつついた。帰りはまた赤心館に寄らせてもらった。とても懐かしい思いでいっぱいだ。ついつい話しが進んで二時過ぎまで話し込んだ。そして、赤心館に泊めてもらった。
啄木は、釧路で書いた日記では梅川さんをあまり好ましい存在のようには書いていなかった。しかし、この日の日記では、いかにも啄木に好意を寄せる人のように登場している。梅川さんが実際に上京していたとしても偶然に電停で会える確率はどのぐらいだろう。この日の日記の中間部は啄木の創作であるか、仕組まれた出会いのような気がしてならない。日記というよりは小説風の書き方なのだ。事実はわからないが。
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東京に着いて2日目となる。
まずは、原文から。
四月廿九日
八時半目をさます。晴がましい初夏の日に緑の色が眩しい。
十時頃、四谷大番町に小泉奇峰君を訪ねて、一緒に市中をブラついた。小川町のトある蕎麦屋で昼食して、歩いて歩いて須田町で別れる。本郷行の電車を待合はして乗らうとすると“石川さん”と云ふ女の声に後ろから止められた。それは梅川であつた。看護婦の梅川……造花の稽古に上京したと聞いた梅川であつた。妙に釧路の人に逢ふ日だなと思ふ。
女は、今朝さる古本屋で予の“あこがれ”を買つて来て、そして釧路新聞に出て居る予の退社の広告を見て、出て来て予に逢つたと話す。何処へと聞くと芝へと云ふ。予は態と反対の方角をとつて上野へゆくと云ふと、私も来てからまだ行かぬから伴れて行つて呉れと先に立つて歩く。遂に二人は上野の山に上つた。色あせた残んの八重桜の花の名残り、鮮かな緑の色にけおされて痛ましい。若葉の中の大仏は興を引いた。女は頻りにセンチメンタルな事を云つては“奇妙ですねー。”と繰返した。
広小路で女を電車に載せてやつて、予は菊坂町の赤心館に金田一花明兄を訪ねた。髪を七三にわけて新調の洋服を着て居た。予が生れてから、此人と東京弁で話したのは此時に初まる。
豊国へ案内されて泡立つビールに牛鍋をつついた。帰りはまた一緒に赤心館に来て、口に云ひ難いなつかしさ、遂々二時すぐるまで語つて枕を並べた。
さて、読んでみよう。
明治41年4月29日
8時半頃に目を覚ます。晴れがましい初夏の日に緑がまぶしい。
10時頃、四谷大番町(現在の新宿区大京町のあたり)に小泉奇峰君を訪ねて一緒に街をぶらぶら歩いた。小川町の、ある蕎麦屋で昼食を済まし、さらに歩いて須田町で別れた。(小泉さんは釧路の頃に関係する人と思われる。小川町、須田町ともに千代田区だろう。)本郷行きの路面電車に乗ろうとすると、「石川さん。」と後ろから女の人に声をかけられた。それは、梅川さんだった。看護婦の梅川さん。造花の稽古のために上京したと聞いた梅川さんだった。妙に釧路の人に会う日だなと思った。(この日の日記あたりから、啄木は小説を強く意識して日記を書いているような気がする。出来事について単純に記録しているわけではない。)
梅川さんは、今朝、どこかの古本屋さんで、僕の詩集「あこがれ」を買ってきて、そして釧路新聞に出ている僕の釧路新聞退社の記事を見て、東京に出てきて、僕に会ったという。僕は、わざと「反対の上野の方に行く。」と言うと、「私も出てきてから上野には行ったことがないので、連れていってください。」と、言って先に歩く。ついに二人は上野の山に登った。色あせた八重桜の花の名残りは、鮮やかな緑の色に気おされて痛ましい。若葉の中の大仏はよかった。梅川さんは、しきりにセンチメンタルなことを言い、「奇妙ですね。」と繰り返し言った。
広小路まで梅川さんを送り電車に乗せてあげた。その後、僕は菊坂町の赤心館に金田一京助さんを訪ねた。髪を七三に分けて新しくあしらえた洋服を着ていた。この人と東京弁で話すようになったのは、これが最初だ。
牛鍋の料理屋さん「豊国」に案内されて、泡立つビールを飲みながら、牛鍋をつついた。帰りはまた赤心館に寄らせてもらった。とても懐かしい思いでいっぱいだ。ついつい話しが進んで二時過ぎまで話し込んだ。そして、赤心館に泊めてもらった。
啄木は、釧路で書いた日記では梅川さんをあまり好ましい存在のようには書いていなかった。しかし、この日の日記では、いかにも啄木に好意を寄せる人のように登場している。梅川さんが実際に上京していたとしても偶然に電停で会える確率はどのぐらいだろう。この日の日記の中間部は啄木の創作であるか、仕組まれた出会いのような気がしてならない。日記というよりは小説風の書き方なのだ。事実はわからないが。
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