啄木日記 明治41年4月28日 続き - にゃん吉一代記
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啄木日記 明治41年4月28日 続き



切れ切れに読んでいる啄木の日記だ。
啄木の足跡を巡ろうとする時に読もうとするので切れ切れになる。

今回は横浜を出て新橋に到着したあたりから。



明治41年4月28日続き

この日の日記は長い。
まずは原文。




 三時新橋に着く。俥といふ俥は皆幌をかけて客を待つて居た。永く地方に退いて居た者が久振りで此大都の呑吐口に来て、誰しも感ずる様な一種の不安が、直ちに予の心を襲うた。電車に乗つて二度三度乗換するといふ事が、何だか馬鹿に面倒臭い事の様な気がし出した。予は遂に一台の俥に賃して、緑の雨の中を千駄ヶ谷まで走らせた。四時すぎて新詩社につく。
 お馴染の四畳半の書斎は、机も本箱も火鉢も坐布団も、三年前と変りはなかつたが、八尾七瀬と名づけられた当年二歳の双児の増えた事と、主人与謝野氏の余程年老つて居る事と、三人の女中の二人迄新しい顔であつたのが目についた。本箱には格別新しい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋絣とかいふ、馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が二寸も出て居た。同じく不似合な羽織と共に、古着屋の店に曝されたものらしい。
 一つ少なからず驚かされのは、電燈のついて居る事だ。月一円で、却つて経済だからと主人は説明したが、然しこれは怎しても此四畳半中の人と物と趣味とに不調和であつた。此不調和は軈て此人の詩に現はれて居ると思つた。そして此二つの不調和は、此詩人の頭の新しく芽を吹く時が来るまでは、何日までも調和する期があるまいと感じた。
 茅野君から葉書が来て、雅子夫人が女の児を生んだと書いてあつた。晶子女史がすぐ俥で見舞に行つた。九時頃に帰つて来て、俥夫の不親切を訴へると、寛氏は、今すぐ呼んで叱つてやらうと云つた。予はこの会話を常識で考へた。そして悲しくなつた。此詩人は老いて居る。
 与謝野氏は、其故恩師落合氏の遺著“言の泉”の増補を分担して居て、今夜も其校正に急がしかつた。“これなんか、御礼はモウ一昨年とつてあるんだからね。”印刷所から送つて来た明星の校正を見ると、第一頁から十二頁までだ。これでも一日の発刊に間に合ふかと聞くと、否、五六日延るであらう。原稿もまだ全部出来てないと答へた。そして“先月も今月も、九百五十部しか刷らないんだが、……印刷費が二割も上つたし、紙代も上つたし、それに此頃は怎しても原稿料を払はなければならぬ原稿もあるし、怎しても月に三十円以上の損になります。……外の人ならモウとうにやめて居るんですがねー。”
 小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、氏は頻りに漱石を激賞して“先生”と呼んで居た。朝日新聞に連載されて居る藤村の“春”を、口を極めて罵倒する。“自然派などといふもの程愚劣なものは無い”と云つた。そして居て、小栗氏の作などは賞める。晶子夫人も小説に転ずると云ふて居ると話した。“僕も来年あたりから小説を書いて見ようと思つてるんだがね。”(来年からですか)と聞くと、“マア、君、嶋崎君なんかの失敗手本を見せて貰つてからにするサ。”――予はこれ以上聞く勇気がなかつた。世の中には、尋常鎖事の中に却つて血を流すよりも悲しい悲劇が隠れて居る事があるものだ。噫、この一語の如きもそれでは無いか! 氏にして若し真に藤村が失敗するといふ確信があるならば、何故其の失敗の手本を見る必要があるか? 予は、たとへ人間は年と共に圭角がなくなるものとしても、嘗て“日本を去るの歌”を作つた此詩人から、恁の如き自信のない語を聞かうと思つて居なかつた。
 十時に枕についた。緑の都の第一夜の夢は、一時過ぐるまで結ばれなかつた。
 与謝野氏は既に老いたのか? 予は唯悲しかつた。(千駄ヶ谷新詩社にて)




横浜での出来事と、東京につくまでは先日、読んだ。
今回は東京についてからだ。

当時の新橋駅は現在の汐留駅あたりだったらしい。

 午後3時頃に、新橋に到着。人力車はみな幌をかけて客待ちしていた。長く地方に退いていた人らが、この大都会の出入口にやって来て、みんな感じるような不安をすぐに僕も感じた。路面電車で、2度3度も乗換えながら目的地に向かうのは、とても面倒なことのように感じた。僕は客待ちをしている1台の人力車に乗ることにした。お金を払って緑の雨の中を千駄ヶ谷まで乗せてもらった。4時すぎに新詩社に到着した。
 前にも来たことがある馴染みの四畳半の書斎は机も本棚も火鉢も座布団も三年前と変わらなかったが、八尾ちゃん七瀬ちゃんと名付けられた2歳になる双子が増えたことと、与謝野さんがびっくりするほど年をとられたこと、3人の女中さんのうち2人は知らない顔であることに気がついた。本棚には、特に新しい本は見当たらない。与謝野さんも生活に余裕がないために新しい本もないのだと気がつく。与謝野さんの着物は亀甲形の大島紬とかいう粗い模様だ。それより、裾の下から襦袢が2寸(約6cm)も、はみ出ていた。着ている不似合いな羽織と同じように古着屋から買ってきたもののようだ。
 しかし、ひとつ驚かされたのは電灯がついていることだ。月1円で、つけないより却って経済的だからと与謝野さんが説明する。しかし、電灯は、どうしても、この四畳半にいる人や物や趣味には合わない。この不釣合いは、やがて、この人の詩に現れていると感じた。そして、この二つの不調和は、この詩人の頭の中に新しい考えが芽生えるまでは、いつまでも調和することはないだろうと思った。
 茅野さんから葉書が来て、雅子夫人が女の子を出産したと書いてあった。(与謝野)晶子さんが、すぐに人力車で見舞いに行った。午後9時頃に帰ってきて、車夫(車を引く人)が親切でないことを訴えた。(与謝野)鉄幹さんは、「今すぐ呼んで叱ってやろう。」と言った。この会話を常識的とは思えなかった。僕は悲しくなった。この詩人は老いている。
 与謝野さんは、亡くなった恩師の落合さんの遺著である、「言の泉」の増補を分担していて、今夜も、その校正に忙しかった。「これなんか、御礼はもう一昨年前にとってあるんだからね。」 印刷所から送ってきた明星の校正を見ると、第1ページから12ページまでだ。これでも1日の発刊に間に合うのですか?と聞くと、いや、5から6日延びるでしょう。原稿もまだ全部はできていないと答えた。そして、「先月も今月も950部しか印刷しないのだが、印刷費が2割も上がったし紙代も上がったし、それに、この頃はどうしても原稿料を払わなければならない原稿もあるし、どうしても月に30円以上の損になります。他の人なら、もうとっくに止めているだろうけど。」
 小説の話が出た。僕はほとんど何も話さなかった。与謝野さんは、しきりに漱石をほめて、先生と呼んでいた。朝日新聞に連載されている島崎藤村の「春」を、口汚く罵倒する。「自然派などというものほど、愚劣なものはない。」と言った。それでいながら、小栗さんの作品などは誉める。(おそらく、小栗風葉さん) 晶子夫人も小説家に転ずると言っているとのこと。「僕も来年から小説でも書いてみようと思っているんだけどね。」 「来年からですか?」と僕が聞くと、「まあ、君、島崎藤村の失敗の手本を見せてもらってからにするさ。」と言う。僕は、これ以上の話を聞く勇気がなかった。世の中には、通常の生活やつながりの中に、血を流すよりも悲しい悲劇が隠れていることがあるものだ。ああ、この一言も、まさにそれだ。与謝野氏が、間違いなく藤村が失敗すると言うのなら、なぜ、その失敗の手本を見なければならない。人は年を取ると丸くなると言われているは、かつて「日本を去るの詩」を作った、この詩人から、このような自信のない言葉を聞きたくはなかった。
 午後十時に布団に入った。緑の都の第一夜は、一時すぎまで眠れなかった。
 与謝野氏は、年老いてしまったのか。僕はただ悲しかった。(千駄ヶ谷新詩社にて)



この日の日記は比較的長い。
夢を抱いて東京にやってきた啄木にとって、横浜で会った小嶋さんの話のおもしろさに胸を躍らせた。その後、新詩社を訪れて与謝野氏の話に失望に近い思いを抱いたのが痛々しい。


この後、亡くなるまで啄木は東京で過ごす。





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