石川啄木 - にゃん吉一代記

石川啄木は、どこに。与謝野晶子さん。



にゃん吉は、石川啄木を求めて、いろいろな所に行っている。
彼のような生き方は、なかなかできない。
それがいいのか悪いのか、判断も難しいが後世に名を残している啄木は、やはり偉大だと思う。

所用で、たまたま関西に来ることになった。

石川啄木は、岩手県出身で最後は東京で亡くなったが、当時のことである。
東京都、神奈川県より西に遺跡は残っていない。
横浜に足跡を残してはいるが、それもわずか1日だけなのでる。

関西で、石川啄木に関連することに出会えることは、全くないと思う。そう考えると関西への旅情は楽しみも少ないと思い込んでいた。


しかし、日本は狭いようで広い、広いようで狭いものだ。
石川啄木が、短歌で身を立てる決意をしたのは、当時の「明星」の影響が大きい。
明星といえば、与謝野鉄幹と、与謝野晶子だ。

その与謝野晶子は、堺市で生まれたそうだ。


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意外に、いろいろなことがつながっていく。




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昔の須田町




秋葉原から程近い、神田須田町だ。
昔は、路面電車の路線もあり、にぎわっていたようだ。
石川啄木の上京後の記述でも出てくる。

ただし、現在では路面電車は走っていない。地下鉄となって地下を走っている。
啄木の日記で取り上げられている神田須田町だが、イメージはわかなかった。
その後の街の変化を考えた文章ではないので、街の様子に関する記述は少ない。
その時としては、当たり前の情景をいちいち描写することはない。
これは、石川啄木の小説があまり好評ではなかったことの理由かもしれない。
松本清張さんの小説を読んでいると、長い記述でないのしても、情景がおぼろに頭に浮かぶ。
短い詩のほうが石川啄木の表現は、想像をかきたてられる。




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啄木の小説や日記の中に、このような挿絵などでもあれば、啄木が表現しなかった部分も見えてくると思う。
今となっては、神田須田町のあたりの景色は変わりすぎている。
そして、人の服装も町並みも大きく変わっている。
路面電車はもういない。
指折り待っても現れてくれない。


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上の絵は、東京駅のあたりだろう。
下の写真は、2016年8月26日の神田須田町だ。


このブログでも写真は、掲載しても街の情景について書いたことなど稀有だ。
それが、おもしろくない理由なのかもしれない。








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石川啄木 日記 明治41年5月7日



 石川啄木の日記である。
三度目の上京を果たしたばかりの頃だ。
今回も原文は、石川啄木 啄木日記さんから借りてきた。いつもお世話になります。
 啄木の日記は同じ時期に書いたものでも平易に読めるものと、かなり考えないと意味がわからないものがある。ほとんど現代の言葉に近い表現を使って書かれていることもある。意図的にやっているのであろう。日記という個人的なものでさえ、いろいろな表現を使っている。先日、啄木は文章に関して努力をしなくても多くの表現技法を使える天才と言ったが、このように日記を毎日書くことが努力であろう。毎日、こんなに書いている。

 さて、日記の原文だ。




五月七日
 起きると、心地よき初夏の日影、公孫樹の幹を斜めに照して居た。古本屋へ行つて電車賃を拵へる。
 九時千駄ヶ谷へゆく。明星が今日出来た。家から来て居る葉書と小包を受取つて、二時与謝野氏と共に電車に乗る。牛込の停車場で、賑やかな栽仁宮の葬式を電車の窓から見物して、お茶の水で別れて帰る。早速小包をとくと、なつかしの妻が、針の一目一目に心をこめた袷に羽織、とり敢へず着て見て云ふ許りなく心地がよい。中に一通の手紙があつた。
“緑の都の第二信”を吉野君へかく。
 植木てい子さんから葉書、返事を出す。並木君平野君へも転居の知らせ。
 森鴎外氏に先夜の礼状を認めた。






読んでみよう。



明治四十一年五月七日
 起きると、心地がいい初夏の日差し、イチョウの幹を斜めに照していた。古本屋へ行って本を売って電車賃をかせぐ。
 九時に千駄ヶ谷へ行く。明星が今日出来た。家から来ている葉書と小包を受取って、二時頃に与謝野氏と共に電車に乗る。牛込の停車場で、にぎやかな栽仁宮の葬式を電車の窓から見物して、お茶の水で別れて帰る。さっそく小包を開くと、なつかしの妻が、一針一針に心をこめた袷(あわせ)と羽織(はおり)、とりあえず着てみてた、なんともいえない心地よさ。中に一通の手紙があった。
“緑の都の第二信”を吉野さんへかく。
 植木てい子さんから葉書がきたので返事を出す。並木さん平野さんへも転居の知らせを送った。
 森鴎外氏に先日の歌会の礼状をしたためた。





 5月7日の日記は、わりと短めだ。日記らしい日記といえよう。啄木の日記を4月から追いかけているが全く追いつかない。やはり、この人が書くペースは、すごい。小説も合わせて書いているのだ。そんなに売れなかったらしいが。これまでの日記の中でも啄木は初夏を書いているが、まだ北海道は寒いのだろう。妻のせつ子は、袷を縫って啄木に送っている。
 この日の日記は、原文のままでも読みやすい。どうなのだろう。意識的に文章を変化させているのだろうか。無意識に書いているにせよ、意識的に書いているにせよ、やはり文章に対する天才的な面を感じる。







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石川啄木 日記 明治41年5月6日



明治41年に3度目の上京を果たした、石川啄木の日記だ。
数日間、与謝野夫妻の新詩社で厄介になり、金田一京助を頼って、赤心館に部屋を借りたあたりだ。この頃の部屋というのは、今とは違って旅館と下宿の中間のようなものだったのかもしれない。日記を読み進んでいけば、わかるだろう。当時の物価というものに実感はわかないが、釧路にいた頃の啄木は年齢からすれば高給をもらっていたようだ。「働けど働けど…」というイメージではない。しかし、この先はあまり高給は取れなくなる。

さて、5月6日の日記だ。原文はいつものように、石川啄木 啄木日記さんからお借りした。




原文



五月六日
 晴れて暖かい日。綿入を着て汗が流れる。雑録体の“北海の三都”を七枚許り書き出した。十一時頃、同県の佐々木六太郎君が遊びに来た。東京に来て七八年、未だ何事をもなさぬ男である。恐らくは此後も何事をもなさぬかも知れぬ。然し、去年の夏、岩手山の裾野に二百五十人の人夫を使つて八十万本の落葉松を植ゑた話は面白かつた。山中一ヶ月の生活、二百五十人が一列になつて、利鎌を揃へて草を刈り払ふ様が目に見えた。草の香りがなつかしい。驚いて飛び立つ鶉、雲雀、夏の日が炎々と照り渡つて、目は汗の為めに開けなかつたと云ふ。水は馬に駄して村から運んださうな。
 夕、花明兄と語る。下宿屋の娘の話を二つ聞いた。何れも君が友なる小笠原文学士に関した話で、そして何れも花明君が其男と同宿して居た時の事である。一つは仙台三番町の佐々木といふ家の娘(竹ちやん)半玉に売られて、妾にされて、逃げて家に帰つた時は美しい娘であつたさうな。声もよく踊も上手で、よく母なる人が“香に迷ふ”といふのを舞はせる。半玉になつた時教へられたとかいふ男たらしの目付を、時々やる。年は十五で、満身火の如く燃えて居る女であつたさうな。一つは湯島新花町の蒔田といふ下宿、十八の玉ちやんはまだ小供の様な心を持つて居た。小笠原の弟は俊才で、開業医の免状をとりに来て居たが、いつしか玉ちやんに心を打込んだ。兄はそれを叱つて今后玉ちやんとは話もしてはならぬと命ずる。ところが其后兄と玉ちやんは毎日起居を同じうするといふ具合になつた。弟は僅か二十一で首尾よく免状をとつて郷里に帰る時、“自家撞着”といふ字を沢山かいた紙を兄の机の下に置いて行つた。或夜、男が女の姉の事を何とか云つてから、真白の玉ちやんの心は変つた。そして其激しい情を我が友の上に注いだ。無論これは男へ対する面当だ。其後下宿を変へた。二年許り経つてから柳原で一度見た。今は何処に居るやら……
 金田一君といふ人は、世界に唯一人の人である。かくも優しい情を持つた人、かくも浄らかな情を持つた人、かくもなつかしい人、決して世に二人とあるべきで無い。若し予が女であつたら、屹度この人を恋したであらうと考へた。









明治41年5月6日
 晴れて暖かい日だ。綿入を着てると汗が流れる。雑録体(雑記的な記録文と思う。)の“北海の三都”を七枚ばかり書き出した。十一時頃、僕と同じ岩手県出身の佐々木六太郎さんが遊びに来た。上京してから七〜八年だが、いまだに何もできていない男だ。おそらく、この先も、これといったことはできないかもしれない。しかし、去年の夏、岩手山の裾野に250人の人夫を使って八十万本の落葉松を植えた話は面白かった。山の中で一ヶ月の生活、二百五十人が一列になって、鎌を揃えて雑草を刈り払ふ姿が目前に浮かんだ。草の香りがなつかしい。驚いて飛び立つウズラ、ヒバリ、夏の日が炎々と照り渡って、目は汗のために開けなかったと言う。水は馬に乗せて村から運んだそうだ。
 夕、花明(盛岡時代の金田一京助の雅号)兄と語った。下宿屋の娘の話を二つ聞いた。いずれも金田一さんの友人の小笠原文学士に関した話で、そしていずれも金田一さんが小笠原さんと一緒に泊まっていた時の事である。一つは仙台三番町の佐々木といふ家の娘(竹ちやん)半玉(一人前ではない年少の芸娘)として売られて、妾にされて、逃げて家に帰った時は美しい娘であったそうだ。声もよく踊りも上手で、よく母なる人が“香に迷ふ”といふ舞を踊らせる。半玉になった時教えられたとかいう男たらしの目付を、時々やる。年は十五で、どこを見ても火の如く燃えている女であったそうだ。もう一つは湯島新花町の蒔田といふ下宿、十八の玉ちゃんはまだ小供の様な心を持っていた。小笠原の弟は俊才で、開業医の免状をとりに来て居たが、いつしか玉ちゃんに心をうばわれた。兄はそれを叱って、今後、玉ちゃんとは話をしてもならないと命令した。ところが、その後、兄と玉ちゃんは毎日寝起きをともにするといふ具合になった。弟はわずか二十一歳でみごと医師の免状をとって郷里に帰る時、“自家撞着(同じ人の言動や文章などが前後で矛盾していること。)”といふ字をたくさん書いた紙を兄の机の下に置いて行った。ある夜、男が女の姉の事を何とか言ってから、一途な玉ちゃんの心は変った。そしてその激しい情を我が友(金田一さん)の上に注いだ。むろん、これは男へ対するつらあてだ。その下宿を変えた。二年ばかり経ってから柳原で一度見た。今は何処に居るやら……
 金田一さんという人は、世界に唯一人の人である。かくも優しい情を持った人、かくも浄らかな情を持った人、かくもなつかしい人、決して世に二人とあるべきで無い。もし僕が女であったら、きっとこの人に恋をしたであろうと思った。




 この日の日記もわりと長い。啄木は親しい人の話を日記に書く時は長い。自分が楽しんだり笑ったりした話は、長めの文章で綴っていると思う。しかし、昔の人は博識だ。鳥の名前を漢字で書くのは難しい。まだ勉学に勤しんでいるみぎりであっても、「宇治平等院鳳凰堂」を書くのは、苦手だった。今はたぶん書けないだろう。「鳩」さえあやしい。
 ここで登場する同郷の「佐々木六太郎」さんについては調べてみないと、どういう人かわからないが、啄木が何事も成さぬ人と言っているぐらいだから、あまり有名な人ではないのだろう。たぶん。
 啄木が、「○○兄」と呼ぶ人は兄のように慕える人なのだろう。宮崎郁雨や金田一京助に「兄」をつけている記述がある。この日記では金田一京助を「花明君」と雅号に「君」付けで記述しているところもある。この時代の「君」は、相手を敬った上の呼び方なのだろう。
 明治41年、石川啄木は23歳だ。この年にして、このような日記を書けるのは、やはり天才だからだろうか。文章のリズムなどは真似できない。ひとつのことを表すにも、何通りもの表現を使う。カナと仮名、漢字、記号の使い方まで、いろいろな効果を出している。でも、あまり努力した風にはみられない。





 

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石川啄木 日記 明治41年5月5日



 明治41年5月5日の石川啄木の日記だ。
3度目の上京で北海道から船で横浜を経由して東京に着いたのが、4月28日だ。東京に着いてから8日目の日記となる。
 まずは、原文だ。原文は、石川啄木 啄木日記さんから借りてきた。平易にまとめていただいて、とてもありがたい。本当にありがとうございます。





五月五日
 節  句。
 起きて二階に移る。机も椅子も金田一君の情、桐の箪笥は宿のもの。六畳間で、窓をひらけば、手も届く許りの所に、青竹の数株と公孫樹の若樹。浅い緑の色の心地よさ。
 晴れた日で、見あぐる初夏の空の暢やかに、云ふに云はれぬ嬉しさを覚えた。殆んど一日金田一君と話す。
 本田君、奥村君、向井君、小嶋君、宮崎君、せつ子へ葉書。岩崎君へ“緑の都の第一信”を書いた。
 京に入つて初めて一人寝た。“自分の室”に寝た。安々と夢路に入る。





今回は、あまり長くない。さっそく読んでみよう。現代語風に解釈してみるが間違いも多いと思う。間違いなど指摘していただければ訂正させていただきます。



明治41年5月5日
 節  句。
 起きて二階の部屋に移動する。机も椅子も金田一さんに準備してもらった。桐のタンスは、この宿のものだ。六畳間で、窓を開くと、手が届きそうな所に、青竹が数株と公孫樹の若樹がある。浅い緑の色が心地いい。
 晴れた日で、見渡すかぎり初夏の空がのびのびと広がる、言葉にできないほど嬉しくなった。ほとんど一日金田一さんと話した。
 本田さん、奥村さん、向井さん、小嶋さん、宮崎さん、せつ子へ葉書を書いた。岩崎さんへ“緑の都の第一信”を書いた。
 今回、上京してから初めて一人で寝た。“自分の部屋”に寝た。すぐに寝てしまった。




5月5日の日記は短い。
赤心館に移ってきて、昨夜は部屋の準備ができていないとのことで、金田一京助の部屋に泊めてもらい、本日初めて自分の部屋で寝た、石川啄木だ。この頃の文学者は、みんな暮しは豊かでなかったようだ。明星を発行する新詩社の与謝野夫妻でさえ暮らしぶりは裕福ではない。啄木もいつまでも厄介になるわけにもいかなかったのだろう。啄木が自分の部屋を持ったのは釧路以来ということになろうか。この頃の「君」の使い方は、どんなものだったのだろうか。現在では、「○○君」と言えば、自分より年下の人を呼ぶ時に用いられることが多いが、明治の時代は違っていたかもしれない。国会中継を見ていると議長は議員を「○○君」と呼ぶ。「君」は、「きみ」とも読む。「きみ」は尊い人にも用いられる。






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